「宇宙を支える力」と「宇宙を変える意図」

 前回の記事では、中込先生の考える唯心論の「心」は主観的心ではなく、客観的心である、という話をしました。そして、量子モナド論において、客観的心は主観的心に対応して複数あり、客観的心の間には通信が行われる、という構造を持っていました。しかし、映画「マトリックス」における仮想現実世界のように、客観的心が一つである構成も可能なのではないか、と問題提起をしました。この客観的心が複数であるべきか、単数でも理論構成が可能であるのかは、理論の詳細に入った後に再び考えたいと思いますが、他人のアバターに入り込む事例があるので、今のところ、一つの客観的心が一つの宇宙を創る構成が妥当なのではないか、と感じています。事例を一つ紹介しておきます。木内鶴彦氏の臨死体験において、木内氏の意識が、心肺停止後にベッドのそばにいた父親の体に入った事例です。

<引用開始>木内鶴彦「生き方は星空が教えてくれる」の「昏睡状態の中で見た不思議な世界」の章

 しかし、呼べど叫べど父は私(筆者注:木内氏)の声に反応しません。耳元で叫んでみようと、父に近づいていくと、突然、私の目線がベッドに横たわる自分の体をとらえました。辺りを見ようとしても視線が動きません。おかしいな、と思ったとき、先ほどまでは見えていなかった鼻っ柱が視界の中にありました。(筆者注:木内氏の父親の鼻っ柱です)

 そこでやっと気づきました。私は父親の肉体に入り込み、父の目を通して見ていたのです。

<引用終了>

 客観的心が複数あるモデルでも、別の客観的心が作った宇宙の情報をもらってその客観的心に対応したアバターの視点を得る、という解釈もできるとは思います。しかし、客観的心同士がそこまで情報共有ができ、視点の差があるだけで各々の客観的心の創る宇宙は同じものである、ということであれば、一つの客観的心が一つの宇宙を創っている、とした方が素直な感じがします。

 ここで、「心」の構造について考える上での参考として、「意識の焦点」を「思考」から分離することに成功した方のお考えを紹介します。その方は、ネドじゅん先生で、参考文献は、「左脳さん、右脳さん。」(ナチュラルスピリット)です。

 ネド先生によると、意識は次の4つの要素から成り立っています。

・「本体(生命)」:おおもとのエネルギー

・「意識の焦点」:わたしであり、指さし望む機能意識

・「左脳」:人間社会を生きるために特化された思考を行う機能意識

・「右脳」:直感を担い、「本体」と「意識の焦点」を繋ぐ機能意識

 ここで、「本体(生命)」と「意識の焦点」という2つの要素が分かりにくいので、少し長くなりますが、ネド先生の実体験によりこの2つの要素の役割を説明した部分を参考文献より引用します。

<引用開始>ネドじゅん「左脳さん、右脳さん。」第4章中の「オカンの体験」の節

 だって、わたしが生きていると思っていたのはかんちがいだったんですから。わたしがわたしを生きているんじゃない。本体さんがわたしを生きていたんですよ。本体さんがわたしの本体だったんです。衝撃でした。

 そのときに見た光景はこうです。創造してみてください。

 あなたが自分という車を一生懸命運転していて、うまく次の角を曲がろうと周囲を見まわして真剣にハンドルを握っている。

 ところが、ふと気づくと自分は助手席に座っていて、ハンドルもアクセルもそこには存在しないんです。握っていたハンドルが、ない。

 驚いて隣を見ると運転席には本体さんが座っていて、ハンドルをしっかり握っているわけです。

 ただ、目を閉じている。

 目を閉じて、微笑んで、そして助手席のあなたに言うんです。

 「さあ、ほら、ナビをたのむ。きみが行きたいほうへ。きみが望むほうへ」

<引用終了>

 このネド先生の意識構造の捉え方によれば、「意識の焦点」の望みに合わせて、「本体(生命)」が現実(宇宙)を創っている、という構成になります。つまり、「本体(生命)」が宇宙を創り維持していく「宇宙を支える力」を持ち、「意識の焦点」が「宇宙を変える意図」を持つ、という役割分担をしているということになります。

 このような役割分担があるとすれば、客観的心である「本体(生命)」が一つあり、主観的心である「意識の焦点」が複数ある、という構成が自然であるように思えます(図5)。そして、上でも述べたように、主観的心が他人のアバターに入り込む現象も、客観的心(ここでは「本体(生命)」)がひとつながりのものである方が、考えやすいのではないでしょうか。

 中込先生は、安易に主観的心が宇宙(現実)を創る、としてしまうと、超能力的なものも含むような誤解を受ける、とお考えになったのであると推測しますが、客観的心が物理的に実現不可能な意図に制限をかけて実現させないような機能を持つとすれば、そのような危険性は無いと思います。また、この制限が物理法則である、とも言えると考えます。

 話が脱線しますが、主観的心の意図を反映してこの宇宙(現実)が創られているとすれば、主観的心の性質が現実化した社会情勢に反映される、と推測できます。現代は、エゴのマインドである左脳的思考の影響を強く受けた争いの起きやすい社会となっていますが、ネド先生が達成したように、多くの人が、意識の焦点と左脳の思考を分離し、右脳経由で全体である「本体(生命)」との繋がりを回復させれば、今の社会情勢も変わるのでしょう。

 最後に前掲書から筆者の気に入っているくだりを引用してこの項を終わりにしようと思います。

<引用開始>ネドじゅん「左脳さん、右脳さん。」第4章中の「オカンの体験」の節

「あなただったんですね。すべての経験の主は。あなたが経験であり、記憶であり、肉体であり、タマシイだ。じゃあわたしは」

 本体さんは限りない愛情を放射しながら言いました。

「そうだ。だからきみが望め」

<引用終了>